自分の仕事(カフェ営業)の、お客様が居ない状況でこのブログを書いてる。Radiotalkの配信を聴いていても良いんだけど、なかなかコメントできない。だって、もし、お客様が突然カフェに来店したら無言で挨拶もなく、退出することになるからさ…。大体この時間(13:00現在)はコメントをせずに君の配信を聴きに徹しているよ。
今日、ブログ日記で書きたいことは、その潜っている(コメントをせずに配信枠に居る状態)とき感じたことを綴っていきたいよ。「君、配信楽しんでいるかい?」ってこと。まぁ…大層なことを言える立場でもなければ、運営でもなければ、同じように「配信を楽しんいる?」と聴かれて楽しんでいないタイミングが思い当たらない訳ではない。それでもリスナー側に自分がいるとき、すっごく思うんだ。「あ、この人配信楽しんでいないんだろうな」って。どんなタイミングで「楽しんでいない。」と思ってしまうかと言うと、あからさまに配信を楽しんでいない状態を差し引けば、配信者のリスナーを見る目が「リスナー」に見えてないときだね。例えば、ギフト(お金)だったり、スコアだったり、フォロワー数だったり、人気度だったり、親密度だったりした場合だね。ギフトを煽ってギフト・スコアを稼いだり、フォロワー数を上昇させたりすることには異議異論はない。(だって、そういうアプリが配信アプリだし、SNSだから。)
僕が見ていて、聴いていて悲しくなったり、つまらなくなってしまったり、「配信を楽しんでいる?」と疑問に思ってしまうタイミングは、リスナーを人として見れていない配信を見たときだよ。デバイスの向こう側には確かに人がいる。お金がコメントを打っている訳ではない。「リスナーへリスナーのギフト」を集めたい目標を呼びかけるのは良い配信だと思う。それでも、「配信楽しんでいる?」と思ってしまう配信は、または配信者は「リスナーに自分の(配信者の)リスナーのギフト」があると錯覚している様子を見て取ることができる。つまり、他人のお金(ギフト)は他人の(リスナーの)ものだよ。つまらない配信は"そこ"を誤認する。リスナーのお金(ギフト)を自分のものとして誤認する。その誤認で「リスナーが100コインを持っているとするなら、今日の配信は80コインを投げ銭させたい。」と思ってしまう訳ではないだろうか。しかし、表面的に見れば楽しい配信もつまらない配信も同じ形をしている。
- 楽しい配信「これだけの盛り上がりを見せたいから、100コインを目指したい。」
- つまらない配信「このリスナーは1000コインを持っているから、100コインを目指したい。」
どちらも形は同じ。配信の良し悪しを決めるのはギフト到達目標を考えていることにはスポットを置けない。ここで、リスナー同士の誤差が生じる。楽しい配信とつまらない配信を明確に区切れるのならば、僕とこのブログを見ている君の配信者フォロー一覧は一緒になるはずだ。しかし、そんなことは無い。(確かめたこともないが…)楽しい配信とつまらない配信でも配信のそれぞれのリスナーの意見や評価は違うからだ。…そして感じ方もね。僕が嫌いな下ネタも、どこかの土地のどこかの誰かのリスナーは大好きなんだ。もっと言うなら、僕がつまらない配信としている配信も他のリスナーには楽しい配信と映っているに違いない。(実際にリスナー数はかなりの数居たのである。)
ここで本軸に戻ろう。リスナーの楽しい配信、つまらない配信の感じ方に差異があるのは分かるが、配信を行っている配信者自身は自分を自分で評価できるはずだ。自分だけの悩みと自分だけの答えが見えているはずだ。リスナーをギフトではなく、リスナーをリスナーとしてみていたタイミングはあったはずだ。どれだけ、大手と呼ばれる状態になっても配信期間が長くても、デバイスの向こう側の人を意識はできるはずだ。
僕自身も気を付けないとね。誤認や意識の違い・変遷なんていつでもだれでもありうることですから。だって、僕はリスナーでもあり配信者でもあるから。